2006年度 2学期、火曜3時間目 2単位

授業科目 学部「哲学史講義」大学院「西洋哲学史講義」

授業題目「ドイツ観念論における自己意識論と自由論の展開」

 

          第5回講義(2006年11月14日)

 

          §5 意志決定のアポリアについて

1、「テーゼ2から何が帰結するのか?」

ここから帰結するのは、「テーゼ2からは事実を、つまり現実に我々が意志決定を行っているという事実を、説明することが不可能である」ということである。そうすると、そこから帰結するのは、次のどれかである。

   a、テーゼ2は、間違っている

  b、テーゼ2は正しいが、事実を説明するには、それに何かを加えなければならない。

  c、テーゼ2は正しいが、現実に意志決定と思われているものは、我々がテーゼ2で想定したような、意志決定とは別のものである。

 

<小レポートの課題:「先週の議論を批判してください」>

多田君:三段論法の内部において、小前提の「私」と結論の「私」が別物である可能性がある(少なくともカントの考えに従うかぎり)、すなわち、状況の内にあるのは、現象としての私であり、またある格率選択の前提となる格率を選択したはずの者もまた、現象的な私である。しかしながら選択ということをそもそもなしうるのは、可想的な原因としての私であった。したがって結論を選択するのも、可想的な私である。しかし、推論の条件を選択したところのものは、やはり現象的な私である。しかし、それが選択したといえるのは、可想的な私との関係によって、すなわち、可想的原因として、それを要請する限りにおいてである。その場合、無限遡行すると、その各々の段階において、ヌーメナルな私が要請されることになるが、しかし、三段論法の系列そのものは、現象的な私に帰せられなければならない。なぜなら、その系列に可想的な私が絡んでくるならば、可想的な私はそれ以前の現象的な私に限定されたものとなってしまうからである。これは三段論法の脚式にも合致するのだが、そうなると、その系列に含まれるのは、現象としての私だけになる。したがって「・・・すべき」なのも、現象としての私ということになる。そうすると、実践的三段論法によって得られるものは、「・・・すべき私」というものが、ただ教えられるだけとなり、選択の条件とはならない。つまり無限遡行するシステムであっても選択の条件を形成しない。

(入江のコメント:現象としての私と可想的私の区別を、ここで考慮するというのは、鋭い見方だと思います。ところで、カントでは、実践的三段論法を行うのは、理性です。「理性は推論の能力である」といわれています。この能力としての理性は、可想的な存在者でしょう。推論そのものは、現象として与えられます。これを踏まえてもう一度考えてみてください。)

 

佐々木さん:意思決定の背後には、常に一般的な法則があるということについて。背後にこういう法則(格率)があるがゆえに、Aという決定がなされるという因果律は、現象界にだけ求められるもので、それよりもっと根源的な可想界においては、我々の思惟では考えることの出来ない根源的原因(可想的原因)がただあるのだ、というのがカントの主張だと理解しました。そうすると個人に道徳的責任が負わせられないというアポリアに直面しますが、例えば「落し物は交番に届けるべきだ」という格率を持っている人が、全く同じ状況で同じ落し物を見かけたにもかかわらず、格率に従って届ける場合と、届けない場合と双方想定できるとおもうので、そういうときの選択が、個人の責任が発生するポイントになるのだとおもいます。(というのは、カント的に正しいのでしょうか?)

入江のコメント:こういう格率があるがゆえに、Aという決定がなされる、というのは理性の推論によることであり、この推論によって行為を選択することがまさに「自由の原因性」になるのだとおもいます。ただし、<自由の原因性はつねに、このように実践的三段論法を行うことなのか>というのが問題になります。なぜなら、もしそうだとすると、先週述べたアポリア1が発生するからです。「全く同じ状況で同じ落し物を見かけたにもかかわらず、格率に従って届ける場合と、届けない場合」の間の選択を、カントが考えているのかどうか、が問題になります。私の解釈では、カントはそのような選択を考えている、しかしそこではまた別のアポリアが発生している、とおもいます。)

 

杉ノ原君:意志決定には背後は無いと思います。例えば、「泥棒はいけない」v1の背後法則は「人のものをとってはいけない」R1になりそうに思えますが、R1はV1を抽象化しただけでのものですから、V1とR1は別ものではなく、V1はR1に含まれるものであると思います。したがって、意思決定は背後法則なしに行われ、それ故、背後法則の無限後退もありえないと思われます。

 また、「人のものをとってはいけない」R1の背後法則として「「人のものをとってはいけない」R1を採用すべきだ」R2が、考えられるのですが、R1とR2は同義であるとおもいます。同じように、R2と「R2を採用すべきだ」R3も同義であり、R3と「R3を作用すべきだ」R4も同義だとおもいます。ですから、やはり「背後」と言う位置は存在せず、それ故、背後法則の無限後退はありえないと思います。

(入江のコメント:R1の背後法則は、「R1を採用すべきだ」というようなものでなく、「人に迷惑をかけてはいけない」というようなより普遍的な内容の規則になるのだろうとおもいます。そうすると、本当にそのようなより普遍的な規範への遡行を無限に繰り返しうるのか、という批判が登場するでしょう。多くの人は4,5回遡れば、答えに給するのではないでしょうか。これが、先週のアポリアへの批判になるかもしれません。

 <R1はV1を抽象化しただけのもので、V1とR1は別のものではない>という批判は重要だとおもいました。しかし、もしそのように考えるとすると、実践的推論はどうなるのでしょうか。

拾ったものは、交番に届けるべきだ。

xさんは、1000円拾った。

xさんは、1000円を交番に届けるべきだ。

杉ノ原君の立場では、「xさんは、1000円を交番に届けるべきだ」V1を抽象化したものが、「拾ったものは交番に届けるべきだ」R1であるので、別のものではないことになります。つまり、V1と判断するときに、R1を大前提とする推論を行っているのではない、ということになります。では、V1の判断はどのようにして成立するのでしょうか。これを考えてみてください。)

 

菅波君:テーゼ2については反論できるような箇所は特にありません。テーゼ2を通してテーゼ1のアポリアが生じることも納得です。

「格率の無限遡行」は先祖をたどっていくことと似ていると思います。父親(母親)の父親の父親の父親の・・・(母親でも同じ)。でも子供が三人いたりする場合を考えると、逆は成り立ちません。子供の子供の・・・とやっていくと結果は分散してしまいます。

 p.10の「行為と自然法則の両立」の部分が難しいです。自然現象の因果法則が統計的なものである場合のみ書かれていますが、自然現象には「必ずこうなる」という100%絶対な例はないのでしょうか? ex.)電子は必ず写真乾板のどこかに到達する(場所を問わず)。

 

原田君:(1)(2)についての反証はないし、むしろ積極的に肯定したい。ただ(2)の下から3行目の文「我々は何らの必要もないところで決断したりはしない」は適切ではないように思われる。すなわち「我々は必要なときに決断する」ではなく、「我々は常に選択し、決断し続ける」のではないか。つまり、何も選択しなかった場合も「選択しない」という決断を為したわけであり、我々は常に意思決定に関して「(何かを選択)すべきだ」という判断に基づいている、ということである。ゆえに(2)は間接的にというより、直接(1)の示す意味と同様になる。

(入江のコメント:原田君の決断についての説明は、その通りだろうとおもいます。そして、もし常に我々が決断せざるをえないのだとすると、そのときの決断は、「何らかの決断をすべきだ」という格率(価値判断)によるのではく、「何らかの決断をせざるを得ない」という事実判断によるのではないか、という批判が考えられます。これについては、後述の予定。)

 

 

前田君:ある出来事が行為であるかないかを判断する場合、その出来事が意志によって生じたかどうかといことを基準とするとアポリアに到るとされる。つまり、その行為を生じさせる原因としての意志は、それ自身の原因としての意志を必要とし、この原因の遡行は結局無限後退に至る。

 ここで、提示されたテーゼ1あるいは2は、このような行為の意志が、更に何らかの規則に基づいて決定されるとするものである。これは、行為は意志によって生じるとする上記のテーゼとは異なるテーゼだが、結局上記のアポリアの視点が変えられているだけで、同様のアポリアが生じる。

 したがって、アポリアに至る理由はテーゼ1or2よりも、初めのテーゼの方にあり、このアポリアを解消するためには、意志が行為を生じさせるという初めのテーゼの方を転換しなければならない。

 テーゼ1or2については、意志を介さず、単純に行為はつねに何らかの規則に基づいて行われると言い換えてもよい。しかし、このテーゼは、行為の規定としては狭すぎる。行為が行為であるのは、他の同様の場合に、規則に基づいて同じ行為をするということになるのではない。ある行為をする場合に、他の行為をすることもできるのに、その可能性からまさしくその行為を選択するということにある。

(入江のコメント:最初のテーゼを主張するには、<意志がそれ自身の原因として意志を必要とする>ということの証明が必要になるとおもいます。これが証明できなくても、テーゼ1と2の証明は可能だとおもいます。

 テーゼ1or2は、行為の規定としては狭すぎるような気がします。そうすると、問題はその証明のどこが間違っていたのか、ということになります。)

 

水野さん:「我々が、意思決定するときには、その背後に一般的な規則がある」に対する反論になるかどうかわかりませんが、・・・。

「xがAであるときは、xはBすべきである」例えば、「NHK受信料を払うべきである」とおもっている人に「それはなぜか」と尋ねると、「それが決まりだから」と答えるかもしれません。しかし、NHKの不祥事があったあとに、その人が受信料を払わな苦なったとすれば、その人は、「それが決まりだ」という根拠はかわならないのに、別の根拠を引いてきて、同じことに対する判断を変えています。これも「一般的」といえるのでしょうか。

(入江のコメント:その人にとっては、実践的三段論法は、デフォルト推論であって、さまざまな暗黙の条件が働いているということですね。これは、テーゼ1と2に対する反論にはならないようにおもいます。たぶん。)

 

平野さん:意志決定のアポリアについて

 意思決定の背後の法則の無限背進あるいは理由の無限背進は背景に法則や理由を考えることから生じています。つまり、現実の意思決定では、法則や理由の連鎖の中で決定していないということです。以下その点について、3点述べます。

@一つの「・・・ならば、・・・すべきだ」で、十分だということ。

A背景に法則はないということ。

B法則や理由の連鎖を考えるとき、現実の意志決定の場面を外から眺める反省的思考の位置にたっているということ。

 

2、規約主義のパラドクス

 ある行為をある格律にしたがって選択するとき、格律は、行為の選択の根拠ないし理由になっている、といえるだろう。上のアポリアは、行為の根拠の根拠の根拠・・・を遡ってゆくこと、あるいは、行為の理由の理由の理由・・・を遡ってゆくこと、であるといえるだろう。

 

 このアポリアは、規則に関するもう一つのアポリアと類似している。それは、規則の適用のアポリアである。規則を適用する時に、適用の規則が必要であるとすると、その適用の規則を適用するのに、またメタレベルの規則が必要になる。規則の適用の規則の適用の規則の適用の規則の・・・というようにこれもまた無限に反復する。

 このような規則の適用のアポリアについては、『第一批判』の中に指摘がある。

 

 「一般論理学は、判断力のための規則を含み得ない。なぜなら、一般論理学は、認識のあらゆる内容を捨象してて、形式だけを扱うからである。[・・・] もし、一般論理学が、規則の下に包摂する仕方を一般的に示そうとすると、これは、ある規則によって以外にはおこりえない。しかし、この規則はさらに新たに、判断力の教示を必要とする。」(A132f=B171f)

 「悟性は、教えたり規則を備える事ができるが、判断力は、教えることができず、ただ練習だけが求められる特殊な才能である。」(A133=B172)

 

では、「どのようにして規則の適用を練習するのか」といえば、「事例」Beispielによってである(Vgl.ibid.)

 これは、ウィトゲンシュタインやクワインが指摘した「規約主義のパラドクス」と同じ問題である。